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机上の空論
考える、ひたすら、考える。
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014 自殺の善悪
自殺は、悪だと思います。
言い切るのはあんまり好きではないけど、これは割と言い切れます。
絶対ではないかもしれないけれど、でも悪だと思います。

人が生きるとか死ぬとかいうことは、
精神論だけでは見えてこない現実の面倒な作業を伴うものです。
現代社会(他の国のことはよく知らないからとりあえず日本の)においては。
自殺をするということは、その面倒な作業を放棄するだけでなく
残った人にその面倒を押し付けることでもあります。
どんなに身寄りのないような人が死んでも、
誰かは面倒な作業をしなければならないのです。

どんな人が死んでも悲しむ人がいるのだからということは、
言いきれないかもしれません。
きれいごとなのかもしれないかなとも、思います。
誰も悲しまない、誰も泣かない人も、いるのかもしれません。
でも、勝手に死んで本当に誰にも全く面倒をかけないでいられる人は、いない。
死ねば、誰かが必ず面倒を負う。
そういう意味で、勝手に自分で死ぬことは許されないと、思っています。

死、自体は悪ではないと思います。
死んだらそりゃ誰かに迷惑はかけることになるんだけど、
避けられないことだし、誰にも訪れるものですから。
病気や事故、或いは戦争なんかで死んだ人は、
死にたいと思って死んだわけではない。
そういうのを、残った人間が後処理をしないといけなくても
面倒をかけようとしてかけたわけではないのだし、
なんならかけたくなかったわけで
そこはどうしようもない。
だけど、それを自ら選ぶというのは、
自惚れだし傲慢だと思います。

人に迷惑をかけることが平気なら、生きていればいいのに、と思うんですよね。

人が死ぬ瞬間を目にして、そのあとの慌しさを間近で見て、
実感として、自殺は許せないと感じたんです。それだけです。
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013 知性


知性とは、それをひけらかさないことだと思います。
ものを人より知っている、というのはすごいことだし
それだけで単純に尊敬すべきだとは思うけど、
正直「俺って何でも知ってるんだよ」って態度でこられて
気持ちよかった例がない。
ものを知ってるのに、それをアピールすることがかっこ悪い
ってことだけは知らないんだなあと思うと
とても残念な気持ちになりますね。

知性は、そこはかとなく漂うはずのものなので、
わざわざアピールする必要なんかないんです、多分。
実際私が知性を感じる人は、
無駄にそれを主張してくるようなことはないですが
にじみ出ているものを周りの人が感じ取ってしまっているといった風に見えます。
そんなものです、多分。

頭がいいということと勉強ができるということはもちろん違いますが、
知性があるということと頭がきれるということもまた違います。
私は、知識はなくても頭の回転が速い人を尊敬しますが、
そういう人が「自分に知識はないけど俺は頭がいい」と思っていたら嫌です。
なぜなら知識も必要だと私は思うからです。
知識がなければせっかくの回転の速さを生かせないということも
大いにありうるのです。
それは勿体無いですよね。
ですから、頭がきれる人であればあるほど知識は必要なんです。
多分。

さっきから私が用いているような曖昧な表現は、
頭がいいとは言いがたい気もします。
知的な女になりたいもんですね。
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012 幸福論

林檎さんの曲とはちがくて?
んーでもあの曲こそまさに「幸福論」だと思う。

「君がそこに生きてるという真実だけで幸福なのです」
(歌詞記憶に頼ってるから漢字とか違うかもしれないんだけど)
っていうところが、まさに幸せってそういうことなんだなと思わせる。

幸せかどうかというのは、常に自分が決めることだと思う。
いや、当たり前だけれどもそれは!
でもそう思ってる人そんなに多くはないような気がするんだよ。
だから私が今ここで「これが幸せだ」と言っても
それは私にとっての幸せを言ってるだけで
「幸せ」そのものの定義には絶対なりえないんですよね。

他人から幸せそうに見えても本人は違うかもしれないし
他人が不幸だと思っても本人は幸せかもしれない。
本人が幸せだと思えるならそれがどんな状況でも幸せなんです、よ。

ちなみに私にとっての幸せは、言うまでもないかもしれないけど
ラーメンズを見続けていくこと。
いま私を幸せにしているのはラーメンズです。
ラーメンズのおかげで私は本当に幸せだと思う。
それこそ、そこにいるという真実だけで幸福なのです。

で、いまふと思ったんだけど
自分が幸せならそれでいいって書いたんだけど、
自分がどんなことを幸せと思ってるかとか、
そのためにどんなものを選んで生きているかというのを
わかってくれる人がひとりいると、幸せはさらに大きくなると思う。
自分がどんなに幸せだと思ってても、
すべての人から「あの人は不幸だ」と思われたら
それは少し切ないと思う。
自分がどんなに幸せで笑ってても
自分が幸せだってことを誰もわかってくれなかったら少し悲しい。
これも私の個人的な意見ではあるけど、
自分の価値観を理解してくれる人がいたら、いいよね。
別に共鳴してくれなくてもいいんだけど、うん。

あなたの価値を大事にしてくださいって、
TAKE OFFの挨拶文で小林さんは仰ってた。
結構当たり前のことなのに、私はこの言葉に救われた。
自分の生き方を、肯定してもらえたような気がして。
私の幸せはこれだなーって実感できた。
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011 生きる糧・原動力

この言葉を見ると私の頭に浮かぶのは
ラーメンズ
の五文字です。

私の生きる糧は、まさにラーメンズ。
言葉通り、糧です。
むしろ、ラーメンズを食べて生きています。
誰にでもある・・・わけじゃないのか。
私だってラーメンズと出会うまでは
こんなにまで自分の支えになるものを得たことがなかった。

私の原動力はこれですって、
言えることは本当に幸せだと思う。
そういうものがあるかないかで、人生の色は変わってくると思う。

「これがあるから頑張れる」って感情は
透明度が高いと思う。
強くて単純で真っ直ぐだし。
そういう気持ちによって動かされている時は、だからすごく気持ちいい。
本来の目的と取って代わってたって、
笑っていられるならそれでいいんだと思う。

だから、私はこれからもラーメンズを食べて生き続けます。
ことあるごとに思い出すよ、
ラーメンズが私を絶望の淵から救ってくれたこと。
まだ私の人生捨てたものじゃないなって、思うことができた
あの舞台を。
言葉が過ぎるように思われるかもしれないけど、
本当に助けてもらったと思っている。
それが相手に伝わることがなくても、かまわないと思う。
こうして私が幸せでそれだけで全て満たされるような、
ほらやっぱり透明度が高いでしょ。


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010人生

ずいぶん久しぶりの更新です。
このテーマを扱って何か書こうとすると
理性が正常に作動しなくなることがわかっていたから
ずっと放置していたんですが、
時が来たのか、なんなのか、
いまふと書こうと思ったので書きます。

人生を考える時、私は具体的なことばかり考えます。
昨年亡くなった父のことを。
56でこの世を去るなんて、と思います。
父の人生はなんだったんだろうと。

人生についての考察を書く代わりに
どこかに書こうと思っていた、
あの頃のことを書きます。

長くなるので畳みます。
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009 悪と正義
すごく難しいテーマだから、
軽々しく書いていいものかどうか悩んだのだけど、
Rさんが「読んでる」と言ってくれたので久しぶりに更新。

正義感って何なんだろうとちょっと思います。
正義感を持ってるって感じた時点で
それは正義感とは別のものになってしまうような気がするのだけど
私だけでしょうかね?これは。
正しいとか間違っているとか、悪とか、
そういうものはどこまで主観に委ねられるものなんだろう。

例えば、法を犯したことが悪いのではなくて、
人を殺したことが悪いのだということですよ。
何故人を殺してはならないのか・・・という疑問があるとする。
理由は、それ(殺人)が悪だからではないと思う。
でも人を殺すことは悪だ。
この狭間に人間の感情が入るのですよ、きっと。

何が正しいか、間違っているかの絶対的な定義はない。
だけどそれは全部主観に委ねられていい問題じゃない。
何が正しいかは全部私が決めていいわけじゃないと思うからね。

ひとりを殺せば殺人犯だけど、1万人殺せばヒーロー。
敵であれば、他者の命を自分の手で絶ったことをも正しいと認める社会が存在する。
何が正義で何が悪かは、社会が決めることなの?
人が決めることなの?・・・わかりません。
ただ・・・この問題を考え出すとすごく難しくなると思うから
ここでは一般的に考えられている正義と悪を考える。
アンパンマンが正義の味方ってことです。

正義の味方にはなかなかなれないものだなぁと思う。
人は根本的に善良で、でも弱いものだと思うから。
他者を傷つけても平気でいられる人は少ないけど、
誰でも自分の身は守りたいと感じるはずだから。
だから私は、何があっても貫けるという信念がある人以外の人が
正義みたいなものを振りかざしているのを見ると嫌です。
里見先生(@白い巨塔)くらいの人じゃないと、
正義を語っちゃいけないと思う。
弱いのがいけないのではなくて、
弱い自分に気付かないふりをして正義という響きに酔うのが嫌なんです。

正義ではなくてもいいから、善良であって欲しい。
正義は強い言葉だから、背負うのはやっぱり難しい。
だけど、善良であることは出来るような気がする。
自分がそうありたいし、例えば男性も善良な人が魅力的だと思う。


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008 才能

才能・・・私には何の才能があるかしら?
怠ける才能と寝る才能はあると思うけどな。
そういうことじゃ、ないか・・・?

才能っていう言葉を聞くと、どこか先天的なものという感じがするし、
天から与えられたもの?みたいなイメージがあると思う。
ある人には最初からあって、ない人にはない・・・という。
でも今辞書を引いてみたら
「才知と能力。ある個人の一定の素質、または訓練によって得られた能力。」
ということらしいですよ。
つまり、最初から持ってるものもそうだし、努力して得た力も才能なんです。
そういう意味で考えると、
一般に才能があると思われてる人はやっぱり才能があると思います。

他者の前で何かを表現している以上、
自分がそれに使ってる手段(絵や音楽とか)を好んでいるというのは
大前提じゃないのかなぁと私は思うのですが、
やっぱり好きでやってると力もつくと思う。
例えば絵がすごく上手に描けたとしても、その人が絵を描くことが好きじゃなかったら
普段絵を描いたり公表したりすることもないだろうと思う。
そういうのを絵を描く才能があるという風に表現はしないと思うんですよね。
それはただの絵が上手な人ですよ。

「好き」という気持ちは人間が実感として捉えられる感情の中で
かなり大きなプラスのもののひとつだと思います。
だから、何かしらの表現手段を好んでいて、
そして積極的に努力できる人が羨ましいです、私は。
ものすごく強烈に羨ましいです。
私にはそういうのがないなぁと思うから、すごく羨ましい。
真っ直ぐに力を伸ばしていけることを才能と呼ぶのかもしれないですね。
「こんなこと」ばっかり考えていられる人が、きっと才能がある人だ。

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007 学校・学ぶということ

うーん・・・難しいテーマだなぁ。
私は学ぶこと自体はそんなに嫌いじゃなかった・・・
ような気がします。
何かを知るということは結構楽しいことだから
うん、何か欲求が満たされる感じがして、楽しいんだけど、
自分が好きじゃないことを勉強するのはそれでもやっぱり
それなりには辛かったですねぇ。
学ぶということは自分の内面の方に向かう行為だと思います。
外側に向かえば宇宙はとてつもなく広いけど、
それと同じだけ人間の内側も広いんじゃないかと思っていて、
だけどその内側は自分で広げようとしなかったら広がらないから
それを広げていく行為の一つが学ぶということなんだと思う。
内側を押し広げる行為は他にもいろいろあって
例えば読むとか聴くとか観るとかそういうのもまた
自分の中を広げるというか、あるいは中に溜めるというか、
そういう行為と呼べるんじゃないかと思います。
だから・・・学ぶということは快楽に近いものがあるんじゃないかと。
でも勉強が好きだっていう人はあんまりいなくて、
むしろ好きだなんていう人を変な目で見るような傾向が
あるかなぁと、少なくとも日本には?うん。
で、学ぶということ自体は多分に面白さを含んでいるのに
言葉を「勉強」と変えただけでその面白さが
とたんに色あせてしまうような気がするのは何故なんだろうか
ということですが、
それはやはり、学校という存在によるところが多少なりとも
あるのではないかと私は思っています。
学校以外で、じゃぁどうやって勉強が出来るんだといわれたら
確かに学校という場所は学ぶのに、
勉強するのに最適とされて作られたんだろうから
何も返す言葉は思い浮かびません。

・・・私はここで、学校で学ぶことが出来ない、教科書が教えてくれない
例えば地域で学ぶこととか、自然とか?夢とか?が大事なんだって、
そういうことを言いたいわけじゃ決してありません。
学校の勉強がただ嫌いなだけの人が、そういうことを言うのが私は嫌いだし
だから自分もあんまりいいたくないと思っている。
私が何を言いたいのかっていうと、つまり・・・
自分の内側を広げる行為というのは、自ら広げようとしないことには
あんまり意味を持たないのかもしれないということです。
だから、どうしたって理解しようとさえ思えない生徒に、
どんなに一生懸命数学の公式を教え込んでも、
それは意味が無いかもしれないと思うのです。
それはね、理解しようとさえ思えない生徒の方が可哀想なだけで
(数学に関しては私もその可哀想な生徒の一人なわけですが)
教え込んでるだけの先生が悪いということにはならないと思うんですよね。
だって数学の公式だって、専門に研究している人が居る以上は
何かしらの魅力があるんだろうと思う。
専門家は好きじゃなきゃ出来ないことだと思うから、
数学家は数学に取り付かれているんだろう。
私が日本語に惹かれるのと同じように、数学に惹かれているんだろう。
だとしたらそれはすごく幸せなことだと思う。
公式を理解しようとさえしない人よりもずっとずっと幸せだと思う。
わかろうとする人は、それだけでわかろうとしない人より幸せだ。
私は、だから学校がどうにかしろっては、全然思わないです。
むしろ必要なのは学生の側が自分で意識を変えていくことだと思う。
だって、「やらされてる」と思っても「やろう」と思っても
同じことをやるのなら、(義務教育なんかそうですよね)
「やらされてる」と思って消極的な態度で臨んで
結局何も身につかなかったなんて結果になるのはつまらないから。
数学で難しいことなんかをすると、学生の口をついて出るのは
「こんなことやっても将来何の役にも立たない」って言葉。
つまり理由が無いというか、こんなことやっててもなぁっていう考えですよね。
でも、数学をやってる人が数学をやる理由って役に立つからじゃないだろうし
そこは多分「面白いと思うから」だと思うのですよね。
で、面白いと思う人が居る以上は「面白い」と思える可能性はあって
面白いと思ったほうが楽しいんだから、できればそっちを選びたい。
「面白い」とか、「興味がある」っていう感覚は
人間が感じる感覚の中で、かなり快楽に近い感覚だと思う。
直接的ではないけど。
それだったら「面白いかも」という視点で、
勉強に臨んでみてもいいんじゃないかと思うわけですよ。
今更義務教育の制度を変えるというのも無理だろうし
人には知っていたほうがいいことってきっとあるから
学ばなきゃいけない量が、
人間には最初からある程度はあるんじゃないかと思う。
で、どうせ知っておいたほうがいいのなら、
プラスの姿勢で居る方がいいに決まってるじゃないかってことです。
私はね、学ぶことには大きな価値があると思ってる。
だから、軽々しく「勉強が出来ればいいってもんじゃない」とかいう人が
本当は嫌いです。
その言葉は、ある程度勉強が出来て初めていえる言葉だと思う。
「勉強しか出来ない」といってバカにされる人はいるけど
その人は「勉強ができる」って、胸張っていいんじゃないかと思う。
「勉強が出来る」ことが一般的に持つ価値以上の価値が
その中にはあると思う。
自分の内側を広げる快感を知らない人に、大きな顔してほしくない。
勉強しかしてこなくて、で、
勉強が出来ることこそが至上だと信じて止まない人は
それはそれでかなり問題だけど、
勉強が出来るということ自体は何も責められることじゃない。
勉強が出来て、勉強が出来ない人をバカにするようじゃ
それは勉強が出来てるとはいわないと思う。
お互いがお互いをバカにする状況が悲しいと、思います。

結局何が言いたいんだ?と思われるかもしれませんが。
勉強が出来る側が出来ない側をバカにすることも
出来ない側が出来る側をバカにすることも
どっちもとっても悲しくて愚かしい行為だと思うということです。
あと、勉強が出来るということは責められることではない。
それ以外で成功することの方がずっとずっと難しいんだから。
ひとつの手段として勉強を選ぶことはいいことだと思う。
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006 芸術
芸術ですか・・・きましたね。
でも芸術っていう言葉が何となく漠然としてる気がする。
というわけで広辞苑を見てみました。
「一定の材料・技術・様式を駆使して、
美的価値を創造・表現しようとする人間の活動およびその所産」
ということだそうです。
・・・??やっぱり何かよくわからないですね。
まぁつまり絵画だったり音楽だったり文芸だったりの、
美的価値が高い表現のことをいうのですね。

私は綺麗な絵は好きです。綺麗な音楽も好きです。
綺麗な文も好きです。
でも、詳しくはないです。だから分析とかはできません。

芸術っていうのは、じゃぁ、分析できないといけないのかっていう話ですが
まぁある程度の知識は必要なんじゃないかなぁと思います。
実際、自分は絵画や音楽に関して知識は全然なくて、
それでも見たり聞いたりして喜んだり楽しんだりすることは出来るんだけど
その感動を上手に表現することは出来ないです。
どういう風に素敵なのかっていうのを、
説明できたらもう少し楽しめるかもしれないとも思う。

私の小6の頃の目標は、
「美しいものを美しいと思える人になりたい」だった・・・
のを今思い出しました。
綺麗なものを真っ直ぐ肯定したいなぁと、素直に生きたいなぁと思っていた。
ていうかその頃からそんなことを考えるくらい
ひねくれていたということだろうか。
今も、似たような目標を持っています。
今は、いろんなものを肯定的に見たいなぁと思っている。

しかし「美」というのは本当に主観的な問題であるからして、
例えば他の誰が否定しても、自分が素敵だと思って心底惹かれたなら
それはその人にとって確実に芸術なんだろうと思う。
そして、惹かれている人に対して、「それは違う」とか、
そういう否定は一切意味を持たないし、誰もそんなこと言う資格はない。
自分が気に入らないものを気に入らないと思っていることは
もちろん自由だけど
すごく好きだと思ってる人に対して
「間違っている」ということはいけないと思う。
例えば「私は好きじゃない」とかは、言ってもいいというか、
好きだと思ってる人に対して言うのはあんまり良心的ではないけど、
でもそれは個人個人の感じ方だから仕方ないんだけど
「間違っている」とか「違う」っていう表現は
やっぱりおかしいと思うのですよ。
例えば「痛い」って言ってる人に「それは違う」とは言えないのと同じで、
「綺麗だ」と言ってる人に「それは違う」とは言えないんだよ。
だけど私には、そういうことを簡単に言う人が多いように思える。
それがどんな理論の上に成り立った考えだろうと
「綺麗だ」とかの主観的な形容を
「間違いだ」という形で否定することはできないのに
そういうことを平気でしている人は、多分多いと思うんだなぁ。
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005 常識・普通

常識ぃ・・・?
ほなお前のその常識いうんは誰が決めたんや!
・・・って、南波先生が、言ってたよ。
このテーマが今私にとってすごくタイムリーなのは
多分この前「伝説の教師」のビデオをTSUTAYAで借りて見たからだ。
「常識」って言葉にやたら敏感に反応してキレまくる南波先生(松本さん)が
あまりにも素敵だったよ。
常に自分の都合(主に借金方面)のことしか考えてないのに、
なぜかいつも生徒を上手い方向に導くんだよ。
大事なのは、そうしようと思ってすることなはずなんだけど・・・
と、教育関係の授業を受けたりしてる私は思うけど
結果よければ全てよしですか?
とまぁドラマの話はこの辺にしておいて。

南波先生が言うように「常識」っていう言葉の範囲はかなり曖昧だと思います。
誰が決めたともわからないし、何が常識なのかも明文化されてるわけじゃない。
だけど、それじゃ「常識」というものは世の中に存在しないのかといわれたら
そういうわけじゃないんですよね。
何となくだけど、みんなが漠然と捉えてる。それが「常識」?
多分「大人なら知っていて然るべき知識」というようなことだと思うんだけど
「こんなの常識でしょ」っていう台詞にはやっぱり多少抵抗がある。
常識についてはみんながそれぞれにそれぞれの意識を持っていて、
その人の意識を非難したり否定したりする権利は、
よほどのことがない限り、私たちに与えられてるものじゃないと思うんですよ。

「あなたの一瞬と私の一瞬が同じだとは限らないでしょう!」(@「本人不在」)
という台詞が、あります。
まったくこの通りで、誰かの常識と別の人の常識が同じだとは限らないわけです。
誰かの「普通」もまた、別の人の「普通」とは違っている場合が多い。
常識というのは、例えばテーブルマナーであるとかの知識であれば問題はないのだけど
「こういうときはこうするべきだ」という個人的な意見を「常識」として主張している人が
意外と多いことに驚きます。
私は、個人的な意見を「普通」といったり「常識」といったりする人が、正直嫌いです。
でもその人はそれが個人的な意見じゃないと思ってるところが厄介なんですよね。
そしてそういう場合なかなか本当に気づかないんですよ。
私が自分の意見を「普通」じゃないのに「普通」として主張している場合もあるかもしれなくて
だから言葉は慎重に選びたいなぁ。
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